『日本の近代活字―本木昌造とその周辺』

(長崎)近代印刷活字文化保存会;朗文堂〔発売〕
bk1/amazon.co.jp】鋳造活字を用いた活版印刷術の発明はヨーロッパ近代の成立を促したが、日本においてもその導入と普及は近代化の推進に欠かすことのできない原動力であった。そこにきわめて大きな役割を果たしたのが、長崎に生まれ長崎に没した本木昌造である。自ら活字の鋳造を試み、対訳本を印刷出版するなど早くから活字の重要性に着目した本木昌造は、明治二年に上海・美華書館のウィリアム・ガンブルを招聘し、率先して活字の製造技術を習得した。その技術のうち最も重要なものが、字形の複雑な漢字活字の製造に適した「蝋型電胎法」という母型製作法である。金属鋳造活字による印刷というアイデアをそれ以前の日本人が知らなかったわけではなかったが、一五世紀のグーテンベルク以来、途絶えることなく活版印刷の歴史を刻んできたヨーロッパと違い、日本におけるその系譜は近世初頭で断絶している。さらに幕末に至り、本木以外にも多くの人が和文鋳造活字の製造を試みているが、これらも明治近代へと引き継がれることがなかった。技術を習得した本木昌造は、ほどなく長崎に新町活版所を設立し、矢継ぎ早に大阪、京都、横浜、そして東京へと進出していった。本木の近代活字は長崎から日本各地へともたらされた。本木昌造による鉛鋳造活字の製造と実用化、事業化によって、近代活版術ははじめて日本に定着していくのである。
序 日本の文字を活版印刷に定置すること本木昌造の意味;第1章 和文活字による近代印刷術導入の前夜;第2章 諏訪神社収蔵「木彫種字」と初期本木系印刷物;第3章 蝋型電胎法と本木昌造の活字づくり;第4章 創始者本木昌造とその世界;第5章 活字と印刷、その世界化と日本化;第6章 シンポジウム・日本の文字は近代活字とどう出会ったのか